桐生高校同窓会
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記念式典

創立98周年開校記念式典 講演会 


4月13日(月)、母校の創立98周年を祝う開校記念式典と記念講演が本校体育館で行われました。
 中澤治校長による式辞では、本校の校訓の成り立ちが紹介されました。「独立自尊」は、昭和24年、一人の生徒が「independence」の語に出会って心動かされ、以前に学んだ福沢諭吉を思い出して、書道の萩原先生に「独立自尊」と大書してもらって脇に「independence」と朱筆したものを講堂入り口に掲げたことが発端となって昭和62年に正式に校訓として定められた一方、「文武両道」のほうは、当時の奈良部校長によって平成20年に校訓として定められ、書道の手島先生が揮毫した、とのことでした。
 宮地由高同窓会長の祝辞では、地元に中学校を作りたいという桐生の町の人々の熱い思いが結実して、当時の金額で3万5千余円(現在の2~3億円相当)の寄付が集められ、全国でも珍しい町立中学校として大正6年に創立された、という経緯が熱く語られました。
 
 その後、記念講演が行われました。本年度の講師は、本校昭和54年卒業で、朝日新聞人事部主査の薮塚謙一先生でした。

 なお、式典には同窓生15名が列席しました。
 式後予定されていた「桜を愛でる会」は、激しい降雨のために中止され、校長室で記念写真を撮影した後、市民文化会館に場所を移して会食しました。


「伝える、という仕事 ~新聞記者の現場から」

                                朝日新聞人事部主査
                                 薮塚謙一 先生


講演中の薮塚謙一先生
 「報道」について考えるに当たって、二つの事例を挙げたい。
 一つ目。「Kennedy shot」という言葉を知っているかな?1963年、アメリカのケネディ大統領が遊説中に暗殺された。車のパレードに同行した記者3人のうち、UPI通信のメリマン・スミス記者は携帯無線電話から本社に第一報を入れた後、1台しかなかったその電話機を抱え込んで車のダッシュボード下にもぐり込んでしまった。行為の是非は別として、速報性ということについてよく分かるエピソードだ。彼は本社に「Kennedy shot」という二語だけを三回連呼したという。
二つ目は、今年度のボーン・上田記念国際記者賞を受賞した朝日新聞の杉山記者について。彼は、南アフリカを拠点にアフリカの22カ国を巡り、紛争に苦しむ弱い立場の人間を報道し続けた。政府が行くなという地帯にも取材に入るため、批判もあるが、それでも、なぜ彼は現場に行くのか?
 彼は「伝聞や間接報道に頼りきれば、本質を見誤ることがある。理不尽に命を奪われた人たちの無念や家族の悲しみは、遠いアフリカで公表された死者の推計数字では伝えられない」と言っている。

 さて、報道って何だろう?
 何より大切なのは正確さ、早さ、多様であること、の三点だ。残念ながら、朝日新聞はその三点をそれぞれ損なって、お叱りを受けた。
 新聞はハブ・メディアと言われている。インターネット、テレビ、ラジオ、雑誌、ケータイよりも数多くの取材陣を抱えている。様々な情報媒体の中心(ハブ)の役割を果たしたい。
 新聞取材の目が失われて不正がはびこったケースがある。リーマン・ショックで多くの新聞社が倒産して「取材空白域」になったカリフォルニアの小都市ベルでは、市の行政官の年俸が十数年かけて500万円→6400万円(大統領の2倍!)に引き上げられてしまった。
 東日本大震災にも取材空白域が生じた。宮城県の女川町だ。朝日新聞の松川記者は11日の震災直後にヘリで上空取材をしながら福島総局に着いたが、女川町から全く情報が途絶えていると知り、車で石巻に向かい、翌12日早朝からは徒歩で女川町を目指して正午には町の中心部に到着、惨状を取材でき、町の人々の話も聞けたが、送信できる場所が見つからない。自転車を借りて探し回り、やっと送信できたのが夜の11時だった。二昼夜かけずり回ってのスクープだった。

 伝えれば、つながる。

 祖父母と母の月命日にトランペットを吹いて追悼する少女を発見し報道した記事が縁になって、その少女はコンサートに招かれた。そこで少女が言ったのは、肉親を失って自分より悲惨な状況に置かれている友人のことだった。
 そして、それがきっかけとなって、多くの支援の輪が広がった。その少女は、今、人のために役立ちたいと看護の勉強を始めている。

 記者にとって大切なことは何か?
 記者に限らないと思うが、一つは「好奇心」。新聞の歌壇で常連だった一人の男性の投稿が途絶え、それを心配する一本の電話をきっかけに、入社4年目の古田真梨子記者は休暇を使って取材し、「家族-途絶えた投稿 短歌が結んだ父子の糸」という記事にまとめ上げた。たった一本の電話から人間ドラマの糸をたぐり寄せた「好奇心」。「なぜ?」と思ったら、自分で調べてみてほしい。
 二つ目は「固定観念の排除」だ。制度なのだからダメなものはダメ、という固定観念を覆して、制度そのものの変更に結びついた取材がある。当時医師にしか認められていなかった気管内挿管という気道確保の方法を秋田の消防が救急搬送時に行っていることについて取材し、違反行為ということで関係者が固く口を閉ざしている中で、粘り強く取材し、ついに「救急救命記録」を入手し、実際に救われた命があったことを立証したことが、制度改正につながった。
 
〈質疑応答〉
:相手から聞き取りをするときに大切なことは何か?
:臨機応変と思いやりが大切だ。例えば犯罪被害者は、事件について語りたくないものだ。しかし、時間が経って落ち着いてくると、社会に訴えたいことが出てくることがある。そこを捉えたい。朝日新聞では、「長期継続取材」を心がけている。

:読売新聞のコラム「編集手帳」はマニアックな知識あり詩歌の引用ありで凄いと思うが、どうしてあのように書けるのか?
:今の日本で最も優れているコラムだ。書き手(渡辺さんといったか)は大変な読書家だと聞いている。元々の知識が豊富なのだろうが、朝日新聞の「天声人語」の例で言うと、専属の助手が一人いて、調べ物を手伝っている。また、会社側がさまざまな部局を経験させて、優れたコラムニストを育てるという側面もある。書き方としては、書き出しによって書きたい内容が読者に分かってしまったら「負け」と彼は言っており、読み終わってから「なるほど」と感心されるのを目指しているという。

:少年法があるのに、雑誌やネットに未成年犯罪者の写真や実名が出ることをどう思うか?
:きちんとした大人に成長するかもしれない過程(少年の可塑性)での犯罪については少年を保護しようという観点に立って報道はなされるべきだ。「あばき系」という言葉もあるが、「受ければ売れる」「さらしちゃおうぜ」といった姿勢はいけない。ただし、歴史的重大事件とか、再犯を防ぐ目的で行われる動機と手口とかについては、報道の責務がある。報道のあり方について、朝日新聞では半年に一度、事件報道小委員会において検証している。


創立96周年開校記念式典 講演会 

 4月11日(金)、母校の創立97周年を祝う開校記念式典と記念講演が本校体育館で行われました。
 中澤治校長による式辞では、本校の沿革と野球部発足が紹介されました。野球部は大正9年、ひとりの生徒が野球用具を持参したことに端を発し、「釘の生えた靴、硬い球を投げる危険な競技」とされていたが、第3代校長斎藤重保が大の野球好きでおおいに奨励、以後、本校の野球部は隆盛を極めていくが、その斎藤校長に励まされたメンバーの一人に後の名監督稲川東一郎がいた、とのことでした。
 宮地由高同窓会長の祝辞では、地元に中学校を作りたいという桐生の町の人々の熱い思いが結実して全国でも珍しい町立中学校として創立された経緯と、スクールの語源・意義について話されました。スクールの語源はギリシア語のスコレー=暇という意味であり、議論や音楽を楽しめるゆとりのことを指し、当時はごく一部の恵まれた人たちにのみ与えられた特権だったのであり、現在、学業のみならず、部活動や文化祭・体育祭を通じて自分を培う桐生高校の3年間を享受できることに感謝しつつ、自分探しをしてほしい、と在校生に呼びかけがなされました。
 
 その後、記念講演が行われました。本年度の講師は、本校昭和52年卒業で、この3月末まで群馬県弁護士会会長の重責にあった弁護士の小磯正康先生でした。

 なお、式典には同窓生約20名が列席しました。
 式後、「桜を愛でる会」が催され、校内を散策しながら同窓生の寄付によって植樹された校内八十数本の桜を観賞しました。残念ながら今年は、前日の強風で花びらが散り敷く中での観賞と記念撮影でした。
 その後、市民文化会館に場所を移して会食しました。

「自分とは何者か -半生を振り返って-」

                          群馬県弁護士会会長・弁護士
                                 小磯正康 先生


公演中の小磯正康先生
 「お前がよく弁護士に」と挨拶代わりに友人に言われるタイプで、私のようなタイプは皆さんの中にも結構いるのではないかと思う。
 運動はそこそこできる、半いじめっ子タイプで、ガキ大将という器ではなかった。いじめた相手の親や先生にはよく呼び出され、母はハラハラしていたと思う。父は厳しく、怒鳴られたり殴られたりしたので、陰に回っていじめをした。
 実家はハンコ屋で、文具も売っていたが、決して裕福ではなかった。
 実家はハンコ屋で、文具も売っていたが、決して裕福ではなかった。
 父は芸術家志向で、絵画も好きで、東京のデパートの絵画展にはよく連れて行ってくれた。本も好きで、家を小さな庵のように仕立て、自らを「小塵」と号していた。講演会で貝塚茂樹先生の面識を得て、東大の文化研究所に通ったりもした。好き勝手なことをして、息子である自分には物も買ってくれないと当時は恨んだりもした。
 芸術に憧れ、型にはまりたくないのは、父譲りかもしれない。
小学校時代は授業中に騒いでしまい、毎日叱られていた。
 しかし、中学時代になると、相対的なパワー不足というのか、叱られない日もでてきた。体操部に入部、市で個人総合優勝をした。担任の男の先生に生意気な言動をしたが、柔らかく受け止められ、「負けた」と思い、以後、愚かな突っ張りや見せかけの反抗はなくなった。
 勉強はこつこつタイプではなく、模試では桐高の圏外が多かったが、最後の模試で合格圏内に入り、ギリギリで入学した。
 桐高には、勉強面でも個性面でも凄い人がたくさんいて、自分の存在感は薄れていった。ラグビー部に入ったが一年で辞めて軟派になり、バンド活動をした。不良化した仲間との遊びが面白く、はみ出しをかっこよく感じた。桐高の通知票が見つかって持ってきたので見ると、2年1学期はクラス47人中20位、コメントには「基礎力を充実させよう。遅刻が多すぎる」など書いてある。
 当時の桐高は浪人が当たり前で、予備校に行ったが、国公立大学へという親の期待に沿う形で苦手な物理や数学もやるという能率の悪い受験勉強で、青山学院大学法学部にしか受からなかった。当時は今より受かりやすい大学だった。憧れて入ったわけではなかった。
 大学は、だから当然楽しくない。1年次から必須の語学をさぼって大学から通知が来た。やる気のない学生が四人集まれば雀荘へ行き、徹夜して講義に行く、という怠惰な生活だった。本を買うから、と実家から送金してもらっても、麻雀と酒に消えた。
 この根無し草生活が、二年間も続いた。自己嫌悪と不安。何の取り柄もないという自信喪失。
 組織に入って働くのは合っていない、でも目立ちたいという見栄っ張りだった。自分は何に合うのか。やることが見つからない…
 考える苦痛から逃れるために、とりあえず目の前にある法律をやろうと思った。受験者が三万人で合格者がわずか五百人という難関の司法試験もその先にある。
 目標がない不安を回避するための司法試験。司法試験には択一問題、論述、面接という段階がある。大学3年で受けたが択一を落ちた。しかし、大学で入った刑法ゼミの先生のユニークな説、その独自性を面白く感じるようになった。自分の性に合っていたのか、刑法にのめり込んだ。
 大学4年で二度目の司法試験。その前日に友人が遊びに泊まっていったが、翌日の択一はなぜか合格。しかし、思えばこれが泥沼の始まりだったかもしれない。
 勘が良かったのかもしれない。この勘の良さ、バランス感覚はどこから来ているか分からないが、妻は「昔から人を困らせることが多かったからプラスもマイナスも分かるのではないの」と言う。
 司法試験受験だけでは地盤がなくて不安なので、大学院に進学した。大学4年、大学院1年、2年と択一には続けて合格していたが、論述はダメで、大学院を一年延長してもらったのに、得意だった択一にも落ちた。そして、司法試験の予備校に行き、6回目の受験。択一は合格、論述はダメだったが、手応えを感じた。
 そして27才。ずっと付き合っていた女性(現在の妻)の親御さんに呼ばれ、「もし今年落ちたら職に就いてほしい」と言われた。仕事に就いたら司法試験は諦めることになる、と覚悟を決めた。
 択一は合格。論述は憲法・民法・刑法のウェイトが高く、そのどれかに失敗するとダメなのに、初日の民法で大失敗。致命的。合格はあり得ないと思った。
 「でも、最後の受験。あと二日、目の前にあることに全力を尽くすしかない。出来なんてどうでもいい。」半分抜け殻のようであり、食事の味も分からず…しかし、何かの間違いか、合格。人生で初めて味わうような感覚だった。奇跡は起こるんだなあと思った。誰に感謝したらいいのだろう。弁護士になってからも、あれは採点ミスだったと言われるんじゃないかと不安がよぎった。  
 2年間の司法修習生を経て平成元年に弁護士登録、30才。平成5年独立。ことしで弁護士26年目になる。
 
 皆さんに言いたいのは、何になりたいと高校の段階で決まっていることは決して多くない、それでいい、いつかは自分の道が開ける。ただ、自分を信じる。 
焦らない。自分の能力・適性が求められる時は必ず来る。
 私は、弁護士になって何かやりたかったわけではない。楽しいと感じたことも少ない。ずるい依頼者だっている。また、依頼者の悩みを背負ってしまい、朝が来なければいい、と思うこともある。
 そんなときのおまじないは「どんな凄い嵐でも必ず止む」という言葉だ。ピンチの時は堪え忍んで、また先に一歩進む。その繰り返し。端から見れば華やかに見えるだろうが、実は地味な仕事だ。ただ、依頼者から無条件で「有り難うございました。先生のお陰です。」と言われるのは嬉しい。
 仕事そのものが目的とは考えたくない。とすれば、何を生き甲斐に生きているのか、この年齢になっても分からない。とりあえず今の仕事を通して、周囲に幸せのかけらを与えられたらいい。

 最後に弁護士について。今は全国に3万5千人いる。10年前の2倍。過当競争で食べられなくなっている弁護士もいる。大学、ロースクール、さらに無給の司法修習生、とお金がかかり、平均で5百万円の借金を背負う。合格しても就職先がなく、2千人のうち5百人が就職を見合わせている現状がある。この状況に対して、国は司法試験制度の見直しを行っているので、皆さんの頃には改善されていると信じたい。
 弁護士法には、基本的人権の擁護と社会的正義を使命とする、と定められている。「使命」が定められている唯一の職業であり、そこに価値が見出だせるならば、弁護士を目指してほしい。

創立96周年開校記念式典 講演会 

 4月11日(木)、母校の創立96周年を祝う開校記念式典と記念講演が本校体育館で行われました。
 館林商工高等学校校長から本校に新たに赴任した中澤治(なかざわおさむ)新校長による式辞では、本校の沿革が紹介されました。桐生町立中学校としてスタートした大正6年は、第一次世界大戦の最中であり、日本の人口は5600万人(群馬県は約100万人)、平均寿命は実に42才であったそうです。
  宮地由高同窓会長からは、地元に中学校を作りたいという桐生の町の人々の熱い思いが結実して、全国でも珍しい町立中学校として創立された経緯が語られましたが、
初代校長には浦和中学校長を退職したばかりの渡部鐍(わたなべ たまき)が招聘され、教頭には渡部の大学の後輩で浦和中学校教諭の金森外見男(かなもりとみお)が呼び寄せられたということで、 埼玉随一の名門校県立浦和中学校(現浦和高等学校)との繋がりが紹介されました。
 その後、記念講演が行われました。本年度の講師は、本校昭和51年卒業で群馬大学大学院医学系研究科臨床検査医学教授の村上正巳先生でした。
 なお、式典には同窓生約20名が列席しました。
 式後、校内を散策し、同窓生の寄付によって植樹された校内八十数本の桜を観賞しました。残念ながら今年は桜の開花が早く、葉桜の風情を楽しみました。
 正面玄関脇で記念講演講師の村上正巳先生も交えて記念写真を撮ったあと、市民文化会館に場所を移して会食しました。


「前向きに生きる -母校の後輩に望むこと-」

                          群馬大学大学院医学系研究科
                             臨床検査医学教授  村上正巳 先生


公演中の村上正巳先生
桐生市立東小学校、東中学校、桐生高校卒業という生粋の桐生っ子です。中学校時代はできたばかりのサッカー部に入って活動しました。家は呉服商で、人とかかわる仕事をしたいとずっと思ってきましたが、作家の北杜夫に憧れ、医学部を目指すようになりました。群馬大学では硬式テニス部でキャプテンを務め、2年間で群馬県のA級になれました。
 川渕純一教授に師事して脳神経外科に進むつもりでいましたが、ホテルニュージャパン火災で川渕先生が亡くなられ、迷った末に第一内科に入局しました。
 大学を卒業して二年経ち、たまたま留学の機会に恵まれ、米国オレゴン医科大学で学び、グリア教授というボスに恵まれて四年近く、甲状腺学の研究に没頭できました。この研究をさらに続け、医学博士号を取得し、甲状腺学会会長賞も受賞できました。結婚(相手は桐生女子高校出身の女性)後の留学だったので、長男は米国生まれです。
 英語の論文も百編近く書いて発表し、また、現在は世界病理臨床検査医学会連合の事務局長を務めています。
 群馬大学医学部のことをお話しします。検査部には毎月4万件の検査が依頼されます。血液一滴で30分以内に遺伝子診断を可能にして新聞にも取り上げられました。実は映画『神様のカルテ』のロケも群馬大学医学部で行われました。先の第107回医師国家試験で94人中91人の合格者を出し、国公立大学医学部43大学中9位の成果を収めたことも、医学科教務委員長を務めた私としては自慢に思っています。
重粒子治療施設は大学病院としては国内初であり、年間600人の治療が可能です。重粒子治療とは、光速の70%の炭素イオンをミリ単位で局所に当てることができ、他の部位を傷つけず、従来の放射線治療に比べて2~3倍の殺細胞効果が得られます。治療日数も1~4週間で済み、社会復帰もしやすく、高いQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が実現できます。
 私は附属病院検査部長の他に感染制御部長も務めていますので、感染対策についてもお話しします。感染症については、WHO(世界保健機関)が1996年に「もはやどの国も安全ではない」と警告を発しました。最近では中国で流行を始めた鳥インフルエンザが話題になって死者も出ていますが、今回のものはH7N9型と分類されているものです。4年前にパンデミック(世界的大流行)を見せたのはH1N1型であり、鳥インフルエンザに関してはH1N1からH16N9までの亜種に分類されています。
 病原体によって感染経路が異なります。飛沫感染なのか接触感染なのかに応じて、例えばマスクであるとか手洗いであるとかワクチンとか、対策も異なります。群馬大学は群馬県で唯一の「第一種感染病床」を有しています。
 
神社には神社庁による「いのちの言葉」が貼られていますが、最近、心ひかれた言葉があります。「苦境にあっても天を恨まず」という言葉です。これは、気仙沼の中学校の卒業式で生徒代表が述べたものです。人生は何が起こるかわからない、どのような環境であっても前向きに、という思いが込められていて、大いに共感します。
 この講演の最後に、母校の後輩に以下のことをお伝えします。
○健康な体をつくる
○人間関係(縁)を大切にする
○文章を書いてまとめる、できれば英語で
○チャンスがあれば留学する
○簡単にあきらめない
○何があっても前向きに生きる

 
ご清聴、有り難うございました。

創立95周年開校記念式典 講演会 

   

校長室にて
 さる4月11日(水)、母校の創立95周年を祝う開校記念式典と記念講演が本校体育館で行われました。
 尾池武校長からは本校の沿革が紹介され、22000名を越える同窓生が各界で活躍されていること、平成10年度から県内唯一の理数科が設置されて成果を上げていること、スーパー・サイエンス・ハイスクール(SSH)の指定を受けてからの5年間の活動が高く評価されて本年度から新たに5年間の指定を県内唯一受けたこと、が述べられました。

   
 宮地由高同窓会長からは、本校創立の経緯、すなわち、地元に中学校を作りたいという桐生の町の人々の熱い思いが叶って、県当局からの資金・校舎・教員と教材の充実という条件をクリアして、大正6年に全国でも珍しい町立中学校として創立されたということが詳しく述べられました。
 その後、記念講演が行われました。本年度の講師は本校昭和62年卒業で、プロのトレイルランニング(山岳マラソン)の第一人者である鏑木毅先生です。先生は本年5月に富士山で行われる国際大会「ウルトラ・トレイル・マウント・フジ」の大会実行委員長を務め、また、昨年11月には観光庁から国内で16人目の「スポーツ観光マイスター」を委嘱され、大変にご多忙な中をご講演いただきました。
プロトレイルランナー鏑木毅さんが記念講演
楽しむ勇気を

公演中の鏑木毅先生
 日本でもここ五年ほどは、トレイルランニングが盛んになってきました。トレイルとは山道のことで、登山とマラソンを足したような競技です。
 昨年は、世界17カ国を回ってレースをしてきました。2009年にプロ転向してからは、海外のレースに集中しています。
 20km、30kmというショートレンジもありますが、世界が憧れるカテゴリーが「100マイルレース」です。一晩中寝ないで走る壮絶なレースです。あちこちに筋断裂を起こし、足の中で内出血した血がジャブジャブいうようなこともあります。走りながら意識が朦朧として幻影を見ることもあります。
 私は初めからトレイルランニングをやろうとしたわけではありません。小学校から野球少年でしたが、中学3年生で陸上部に転向、夏の中体連3000m走で県2位になったのが人生を変える大きな思いこみと言いましょうか、桐生高校に入学して陸上部に入部し、京都で行われるインターハイ出場を目指して実力以上のハードなトレーニングを積み重ねた結果、大会出場どころか、重度の座骨神経痛になり、それ以降の高校生活はまともに走れなくなってしまいました。
その走れなかった悔しさを箱根駅伝で晴らそうと、進路は早稲田大学に決めました。当時の早稲田はあまり強くなく、高校時代の実績が無くても入れる、という不純な動機でした。
 部活動で約30km走り、下宿に帰ってきて夜もさらに自分で30km走るという生活のかいあって、大学2年のときにチャンス到来、箱根駅伝の山下りの要員に抜擢されました。しかし、不運なことに座骨神経痛の再発、以後、卒業まで走れなくなりました。一方、早稲田大学は私が大学4年生のときに箱根で総合優勝しました。私はコンプレックスの固まりでした。
 卒業して群馬県庁の職員になっても日常に流される日々、体重は80kgになりました。そうしたある日、新聞で山を走るレースの記事を読みました。このレースに出られれば人生が変わると直観しました。しかし、なまった身体は容易なことでは戻りません。
 しかし、一年後。レースに出て、森の香りや木洩れ日に心地よさを感じながら走ったところ、気づいたら1位でゴールイン。私は、結果よりも、またやるべきことが見つかった嬉しさでいっぱいでした。
 現在は、レースを走るだけでなく、1位でも下位でも誰でもヒーロー、大自然に抱かれ、観衆から熱いリスペクトをもって迎えられるこのスポーツ文化を根付かせる、レースを作る側の仕事もしています。
 皆さん、高校時代はいろいろな挫折もあるでしょう。しかし、挫折は悪いものではありません。「自分はどうなっちゃうんだろう」という時に、それを「日常的ではない楽しさ」と思いこむことで乗り切ってください。「こんなことは滅多にない、楽しい、楽しい」と。 最後に「楽しむ勇気を」という言葉を贈ります。 

創立93周年開校記念式典 講演会 

現代画家の山口 晃さんが記念講演
ゼロ地点―現代美術について




 【山口 晃氏 略歴】
 昭和44年 東京に生まれる
 昭和63年 桐生高校卒業
 平成5年  東京芸術大学美術学部
        絵画課油画専攻 卒業
 平成7年  東京芸術大学院美術研究科
        絵画専攻 修士課程終了
 平成12年 第4回岡本太郎記念
        現代芸術大賞優秀賞受賞
 
主な作品・・・・
洞穴の頼朝・どぶ川のほとり・落馬十字軍
百貨店円圖・日本橋三越
主な著書・・・・
「山口晃作品集」(東京大学出版会)
「さて、大山崎」(光村推古書院)
「すゞしろ日記」(羽鳥書店)
  平成22年4月12日に、桐生高校開校93周年記念式典が、本校体育館で挙行された。栗田裕前校長の式辞に続いて宮地同窓会長が祝辞w述べられた後、開校記念講演会が開かれた。今回は、昭和63年卒で現代画家として活躍する山口晃さんが代表作品のスライド上映を交えながら講演を行った。山口さんは、ひょうひょうとした語り口で、絵画の道に進むきっかけとなったエピソードや高校時代の思い出を語りながら、現代美術について興味深く解説された。
 芸術には「ゼロ地点」というべきものがあり、そこへ持って行くための技量がなければ、人が自分の作品に入ってきてはくれないとのこと。また、最先端を表現しつつも、そこに到達するまでの過程を作品の中に入れることを常に心がけているそうである。そして、子どもの頃夢中になったものや、高校時代のさまざまな活動が現在の自身の芸術に生きていることをユーモアたっぷりに語られた。
 最後に、かつての日本人が西洋美術をマネることから出発し、やがては芸術の完成度を高めていったことにふれながら、「ビビッと」きたときにはマネするのも大事、と話された。きっかけは真珠貝の芯のようなもので、それ美しい真珠層をかさねていけるかであり、マネしたことをやがて酒樽の中で、自分独自のものに仕上げてゆく喜びについて語られた。
 生徒は氏の独特な語りに引き込まれながら、夢を追い求めることの素晴らしさを再認識したようで、大きな拍手と共に講演会は終了した。

創立91周年開校記念式典 講演会 

亀山豊文氏(桐生市長)が記念講演
桐生の町を元気に

― 全校生徒へメッセージ ―



 【亀山 豊文氏 略歴】
 昭和25年 桐生市に生まれる
 昭和44年 桐生高校卒、専修大学入学
 昭和48年 専修大学法学部卒業
 桐生青年会議所理事長などを経て、
 平成7年の群馬県議会議員選挙に桐生市
 選挙区から出馬し初当選。以後3期務める
 この間に、文教治安常任委員会委員長、
 総務常任委員長、議会運営委員長を歴任
 平成19年 桐生市長に就任
   平成20年4月11日に、桐生高校開校91周年記念式典が、本校体育館で挙行された。記念式典で、大野秀一校長の式辞、宮地同窓会長の祝辞が述べられた後、開校記念講演会が開かれた。昭和44年卒で桐生市長の亀山豊文氏が、「伝統と創造、粋な町桐生~明日の桐生を担う若者たちへ~」と題して壇上に立たれた。
 氏は、桐生の再考を訴えて、桐生の歴史・文化遺産、昭和22年当時の人口の多さ、高校も多く群大もある教育環境の良さを指摘された。「一度桐生を離れても、思い出してください。時には帰ってきて下さい」「より素晴らしい町にして待っている」と話し、「勉強の合間に桐生の町を歩いて下さい」「若者が町に出れば、町が元気になる」と全校生徒に呼びかけた。桐生と母校の後輩に対する温かな思いに溢れた講演であった。


創立90周年式典が開催



式典で挨拶する大野校長


感謝状を受け取る塚越前会長
 平成19年11月2日、本校創立90周年記念式典が市民文化会館シルクホールで行われた。式典は、在校生841名、教職員66名、来賓150余名を迎えて盛大に行われた。
 式典は国歌斉唱、物故者に対する黙祷に続き、大野校長が式辞を述べられた。
 大野校長の式辞では、本校15代野村吉之助校長の言葉を引用し、「青年の本領は前進力にある」盛大に開催とし、「地域や我が国の明日を担う者として、今日の式典を新たな出発点にして、さらに努力を続け、堂々と前進して行こう」と在校生に話された。
 さらに、90周年記念事業実行委員会委員長で同窓会長の宮地由高委員長は「本校は、桐生の自治精神が今でいう市民運動となって創立された。桐生の発展は桐高の発展なくしてはありえない。卒寿を新たな出発点として、地域の発展に寄与できるよう努力していこう」と同窓生や在校生に呼びかけた。
 続いて感謝状の贈呈が行われ、同窓会会長を27年間にわたって務め、育英基金として1,000万円を寄付した塚越平人前同窓会長様をはじめ、歴代PTA会長10名、学校史編纂功労者四名に感謝状が贈られた。
 
 さらに、この式典のメインである「生徒宣誓」では、3年生の4名、安松哲生君・田島遼君・黒田友貴君・栗原千絵梨さんによる合同の宣誓がおこなわれ、参列した方々に感銘を与える素晴らしい宣誓となった。なお、宣誓の要旨は次のとおりであった。

一、友との出会いに感謝し、その絆を深める。

一、熱き思いを胸に前へと踏み出す。

一、好奇心をもって経験を積み、行動をもって社会へ示す。

 常に桐高のプライドを持ち続け、世界へ羽ばたく努力を続けることを誓う。




生徒宣誓
 また、生徒会長小林数馬君からは、「90周年記念事業に感謝すると共に、誇りある桐高の歴史と伝統を引き継ぎ、地域社会の期待に応えるべく一層の努力をしたい」と謝辞が述べられた。
 来賓祝辞として、県教育委員長、県議会議員代表、桐生市長、県高校校長会長の方々から、新たな旅立ちをむかえる桐高への応援の工-ルをいただき、式典は盛大に滞りなく終了した。
 式典後、ぐんま昆虫の森園長の矢島稔先生による
記念講演が行われた。
 記念行事の締めくくりとしての祝賀会は、市民会館スカイホールへと会場を移し、120余名の出席者のもと和やかな雰囲気の中で行われた。 

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